魂の旅 1

2022年8月27日公開,真理

 小学生の頃の私は異次元の別の世界があって、そこが真の世界でこの私という存在は現実世界を造り出す仮想体験機械によって投げ出された存在のように思っていました。
 まだバーチャルなどの言葉が日本で使われるずっと前でしたが、今なら超リアルなバーチャル体験機とされるものを考えていて、いつになったら仮想現実から目覚めるのだろうと思っていました。


 また、時には意識が離れて別の世界へと飛んでいることもあったようで、現実世界の荒い波動の中に帰るのがとても嫌だった感覚を覚えています。
 そして(これは今でもですが)夢から覚めた時にこの現実世界に私として存在していることの驚きを感じることがあります。
 その感覚は例えるなら記憶喪失者が突然、見知らぬ人から、あなたの名前は何々でこうした家族がいてこうしたことをしていましたと告げられて戸惑うのに近いかも知れません。
 実存主義は人間をある日突然世界に投げ出された存在と考えますが、高校時代に実存主義にひかれたのもそうした感覚があったからだと今では思います。
 実存主義文学者のカフカの作品に「変身」というのがあります。
 知っている人も多いでしょう。
 主人公のグレーゴル・ザムザは、ある朝自室のベッドで目覚めると、自分が巨大な虫になってしまっていることに気が付くことではじまる作品です。
 ある朝目覚めると”私”になっていた。そうした気分に近かったと思います。
 今なら現世に降りてきて今の私として肉体に宿り生きていることの魂の違和感であったことがわかります。
 また私達は生きていくうえで様々な観念を創りだし、自分達でつくりあげた観念に縛られて生きていると気づきました。
 それはまるで目に見えない鎖に縛られているように思います。
 自分達で目に見えない鎖を作り縛られることで安心していながら、鎖にからまり苦しんでいます。
 本当はそんな鎖などどこにもないのにです。
 良い学校にいかなければならない。良い会社に就職しなければならない。適齢になれば結婚しなければならない。そして子供を作らなければならない。子供には良 い教育を受けさせなければならない。等々、これ以外にもじつに様々な鎖を勝手に作って勝手にがんじがらめになりながら自分や子達が枠から外れると勝手に苦 しんでいるように見えました。
 本当はそんな鎖などどこにも無いのに世間体などを気にして勝手に鎖を創っては縛られて檻の中にいるあいだは安心していられます。
 そして最大の観念こそ”私という観念”ではないかと思いました。
 現実世界に肉体感覚をまとって降りてきた個としての私。
 そして私という観念。
 いったい私とはなんでしょうか?
 私達は私でないものがあってはじめて”私”というものを知ります。
 ”私”が”私”を知るためには”私でないもの”が必要になります。
 世界のはじめに全てであるもの、全一なる存在は有限なるものを分離しました。
 有限なるものを分離することで無限であり全てであるものを照らしだしました。
 有限なるものは次々と分離していき無数の分離された存在が出来上がりました。
 その分離された存在は、自分とは違う存在の姿を見ることで、自身の存在を自覚することが出来ます。
 分離することで存在は開示されました。
 全体から分離した私達は世界を見るとき一つの視点に立たなければ見れない仕組みになっています。
 分離した私は自我の立場に立つことで私でないものを見ることが出来るわけです。
 そうしたルールのなかで私達は生きています。
 しかし一つの視点に立てばその視点そのものは盲点になって見れません。
 例えば灯台に上がって外を眺めれば海は見渡せますが灯台自体の姿は見れません。 逆に海へ船で出ると自分の位置がよくわからなくて灯台や星座を見ることで自分の位置を知ります。
 人間も同じで自分の立場から対象を見ることで対象を観察できますが、自分自身については分からなくなります。
 世界は様々な対立理念を生み出しました。
 それは”私”を体験するために必要なものでした。
 闇を知らなければ光がわからないように、不幸がわからなければ幸せの有り難さを知りません。
 白の白さを知るためには、反対色である黒がないと引き立ちません。
 色彩にはそれぞれ赤には緑、黄色には紫、青には橙というように補色関係にある対になる色を持っています。
 私達が色彩を見れるのは内側から補色を出して内外を照らし合わすことによって世界を見ることが出来るのです。
 世界は対になる概念を持つことでその存在を開示出来るようになっています。
 熱い⇔冷たい、明るい⇔暗い、高い⇔低い、男性⇔女性、陰⇔陽、積極⇔消極、美⇔醜、善⇔悪、真⇔偽
 もし世界にこれら対になる概念のうち一方しかなければ、それは自身の性質を認識出来ないでしょう。
 つまりあらゆるものは単独では存在を認識しえないということでもあります。
 カバラで用いられる生命の木は、頂点のケテルからコクマー(知恵)とビナー(理解)に分かれます。
 コクマーは能動的男性的をあらわし、ビナーは受動的女性的をあらわしています。
 ケテル(王冠)より両極のコクマーとビナーに分離することで開示されます。
 両者に流出されないケテルは自身を現わさず隠れたままになります。
 古事記には対を持たない神は皆「ひとり神となりて身を隠したまいき」とあります。
 生命の木を円であらわし、他の木と重なるように描いたものがフラワーオブライフ・生命の花として表されます。
 これは相互に依存しながら存在は成り立っていることを示しています。
 同じことを仏教では帝釈天網で表現されています。
 インドの神様でインドラという方がいらっしゃいますが、この神様が仏教に習合された姿が日本でも有名な帝釈天です。
 この帝釈天の宮殿の庭には網がかけられており、この網の重なり目には一つ一つ宝珠がつけられています。
 さらにその宝珠はすべての宝珠が映されて無限に輝いているとされています。
 宮沢賢治のインドラの網もこの網のことを指しています。
 この帝釈天の網について様々な解釈がされていますが、私なりの解釈をいたします。
 網の重なり目につけられた宝珠は私達一人一人であり、すべての意識一つ一つであります。
 その一つが外の世界を見つめて意識に映し出す様を宝珠が互いを映すとあらわしています。
 この個々に孤立して存在しているように見える宝珠も、本当は無限の存在に繋がっています。
 そして個々に存在しているようでいて、周りの世界の関わりによって成り立つものであり、独りでは存在しないものであります。
 全一なるものから分かれ出た私は全一なるものの見る夢であるとともに、世界は私達の共通信念により成り立ち、私達の心象風景を映し出した幻でもあります。
 仏教では個々の存在には自証性がなく、縁起によって重々無尽に重なり合い成り立っているとされます。
 私達が対象を知覚するとき、私達の中から対応する理念があってはじめて対象を理解します。
 五感によって受けた対象と内なる対応物が合致してはじめて理解を得られます。
 私達は自我という着ぐるみを着て世界にあらわれ、客観としての、見て聞いて感じる世界を体験することができます。
 自我の働きである分析知は自己と、それ以外をわけていくことで、さらに自我は確立されていきます。
 人間は誕生してから肉体をまとい肉体の感覚である目・耳・鼻・舌・身によって外界をそれぞれ色・音・香り・味・触の感覚を味わいます。
 そして”私”と私でないものを分別していきます。
 成長するにしたがって様々なレッテルを貼っていきます”私”は男だ。”私”の名前は〇〇だ。”私”は長男だ。”私”は〇〇という会社に勤めている。”私”は課長だ。”私”の出身地は沖縄だ。”私”は〇〇学校を卒業した。等など、じつに様々な記号を貼付けます。
 それはこの世界で他者とわかりやすく区別するためです。
 ですが、その人に貼られたレッテルを知ることで、その人自身を知ったと勘違いします。
 分析知は様々に世界を分けて、記号化して、分類してくれます。
 分析知によって私達は”私”であることを知り、私でない世界を知り、それを分析していくことで文明を築いていくことができました。
 もし分析知がなければ人類は原始のまどろみの中にいまだにあったでしょう。
 私達は私でないものがあってはじめて”私”を知ります。
 ”私”は全体という大海からコップで掬われた海の水のようなものです。
 ”私”の中にも全体とおなじ要素が含まれています。
 海の一滴にも大海とおなじ成分が含まれているようにです。
 ヘルメス文書で「上にある如く下にあり」と言われるようにマクロコスモスとミクロコスモスはおなじ要素をうちにもちます。
 それは私達が原始に全てなるものから分離してきた印しにほかなりません。
 それでは全一と言い、全てなるものと言うのはどのようなものか。
 それから分離し対立する限定されたものが流出します。
 その分離し対立したものを成り立たしめる”場”とも言えます。
 複数のものが成立しえるのはそれを包括して成り立たしめる”場”がなければ存在しえません。
 ”場”は限定された全てを含み、全てを成り立たしめ、それ自体は開示されません。
 全一なる”場”から流出し限定されたもののみが私達に開示されるのです。
 このように世界は全一なる”場”から”分化”していく働きがあり、同時に”回帰”する運動もあると言えます。
 世界は分離して限定され対峙することで認識され存在を開示出来ると述べました。 ”分化”と”回帰”を人間の認識論で展開すれば、世界の認識の方法を二つの在り方に分けられます。
 それを私なりに分析知と統合知と呼んでみます。
 分析知は”分化”の働きの知であり、いままで述べたように自我の立場に立って世界を分析し、分類し、峻別することで世界をわかりやすくし、善悪や美醜や真偽を分けます。
 また一つの立場にあって世界を見ることでその立場そのものが盲点になる知でもあります。
 一方の統合知は全体を俯瞰してみる”回帰”の知であります。
 善悪や美醜や真偽を分かつことなくあるがままに世界を見ていきます。
 物事を一視同仁に見つめますがそこに判断はありません。
 仏教でいう般若の智恵とはこのことでしょう。
 分析知は自我に写る対象を次々に分析して分解し、それぞれに名前を付け、他のものから分けて、性質を定義していきます。
 例えばここに猫がいるとして分析知はまずその猫に名前を付けて他の猫と分けて、毛の色や模様を識別し、大きさや性別や性格などを判断していきます。
 さらにその猫について知りたいと分析していけば、骨格のありかたや個々の内蔵の働きや細胞の仕組みや遺伝子情報まで調べて分析していきます。
 さらに分析を進めると、タンパク質の分子構造や原子の働きやクオークまで分析しだします。
 ですが、次々と分析して微細なものを追及していっても、猫の本質から離れていくことになりえます。
 対象を判断して、これは善い・悪い、これは美しい・醜い、これは正しい・間違っているなど判断するのは分析知の働きと言えます。
 分析し分類し分解し分離する働きです。
 どの言葉にも分けるという字が入っているように違いを明確にする働きであり、それによって世界は私達の意識に開示されます
 分析知がなければ人類は原始の意識のまどろみの中に今でもとどまっていたでしょう。
 逆に、全体が見れなくなり、自我の立場に立って自我自体が盲点となり見えません、そして自他の分離感覚を強め、善悪や真偽を明確にするため進歩していきますが争いや対立の原因になります。
 科学や政治や経済や西洋思想など現実を見極めるのに多い知です。
 統合知のほうは対立を超えて統合した見地から俯瞰した眼差しです。
 例えば森を見るときに分析知は個々の木の植物的構造や働きや化学反応や分子構造などに目がいくとするなら、統合知は森全体を見ようとします。
 そして一個の森だけでなく隣接した森との繋がりや森を通って流れる川やその先の海との関わりなどを見つめます。

公開,真理

Posted by 洪 正幸