宗教と魂の段階(第15回)統合界 ― 光の働き手たちの世界

前回は、自分の願いを叶えるための祈りから離れて、誰かのための通り道になっていく魂を見ました。
その途中で、こうした魂が還る先として統合界の名前を出しました。
菩薩界とも呼ばれてきた事、類魂であるグループソウルとの統合が進んでいる事、地上にも無名のまま降りている事までは、前回書いたとおりです。
今回は、その統合界の内側へ一歩入って、住人たちがあちらで何をしているのかを見ていきます。
この建物を上っていくとき、階が上がるほど外へ大きく広がってるのではありません。
上の階ほど、内へ深くなっていきます。
霊的に視ますと、この層でまず違って感じられるのは、景色ではなく気配のほうでした。
目に映るものはあっても、地上の言葉に置き換えられる形をほとんど持ちません。
はっきり違うのは、そこにいる魂たちの輪郭です。
本来は光の塊として存在しており、他の人の前に現れるときには、かつて地上で生きた姿を取ります。
そしてその人の魂らしさは残ったまま、自分と他人のあいだの壁だけが、地上とは比べものにならないほど薄い。
ですから他人の苦しみを我が事と感じ、他人の喜びを新に自分の喜びとして感じます。
地上でなら、同じように人に親切しているように見えて、人によく見られたいとか、計算があってよくしている場合と、自分の利益は度外視して相手に奉仕している場合の違いがあります。
この層では純粋に人への奉仕を喜ぶ魂が住んでいるのです。
いえ、この層の魂は、住んでいるというより働いています。
下の層と地上に向けて、光を送る手を休めないのです。
前回は天から来た水を運ぶ管のたとえを使いましたが、統合界ではあの管がそのまま暮らしの形になっています。
送る先を選り好みする魂はいません。
光は、いちばん暗いところから先に届いていきます。
この働きかけは、地上の私たちにも届いています。
あと一歩で取り返しのつかないことをするというところで、ふと手が止まる。
そうした出来事の背後に、この層からの働きかけがあることは少なくありません。
臨死体験で出会う光の存在の多くが統合界から降りてきた霊人だという話は、前回書きました。
守護霊と呼ばれてきた存在の多くは、叡智界の方々です。
指導霊や守護天使と呼ばれる存在になると、多くはここから関わっています。
彼らにできるのは、気づきやすくすることまでです。
思い直した一歩を実際に踏み出すのは、私たちの側の仕事。
代わりに人生を歩いてくれる存在は、どの層にもいません。
とはいえ、頼ってはいけないと言いたいのではないのです。
助けを求める思いは、あの層にきちんと届いています。
届いたうえで、彼らはこちらの選ぶ自由を横から奪わない。
その慎み深さこそ、あの層の魂の優しさなのだと私は思っています。
そして、その慎み深さが失われたとき、この層にも固有の落とし穴が口を開けます。
昔から慈悲魔と呼ばれてきたものです。
慈悲が魔に変わる、と書きます。
助けるつもりの手が伸びすぎて、その人が自分の足で立つ機会を取り上げてしまうこと。
転ばせまいと先回りしているうちに、相手は転び方も起き上がり方も覚えないままになります。
やがて自分では何ひとつ決められなくなり、助けてくれる人なしでは立てない人になる。
救ったつもりで、その人を弱らせていたわけです。
やっかいなのは、やっている本人に悪気がひとつも無いところ。
善意でやっているぶん、もうやめておきなさいという合図が、自分の側からは見えません。
見分ける目安をひとつだけ書いておきます。
続けた先で相手が自分の足で歩けるようになっていくなら、それは相手のためになる助け。
続けるほど相手がこちらを頼らずにいられなくなるなら、それは相手から力を奪う助けです。
そこにはたいてい、必要とされていたいという願いが混じっています。
この落とし穴にはまった魂は、統合界にいながら足元が抜けて、地の底の暗黒界へ沈むことがあります。
ただ、そこを罰の場と思い描かないでください。
閉じ込める者もいなければ、期限を切る者もいないのです。
自分の内側にたまった濁りが、そのまま暗さになってまわりを埋めているだけのこと。
人をつなぎ止めてきた魂は、そこで誰からも必要とされずに過ごします。
つらくはあっても、終わりのない時間ではありません。
私は良かれと思ってあの人の力を奪っていた、と認めたとき、あたりの暗さはうすらぎます。
そして、上へ戻る道が足元にひらけるのです。
地上にいる私たちも、同じところでつまずきます。
手を出さずに見ている時間は、手を出すよりずっと苦しい。
その苦しさに耐えられるかどうかが、相手を信じているということなのでしょう。
前回の宮沢賢治さんや隠れた義人の話のように、統合界から地上へ降りて働いている魂は少なくありません。
そういう人の口から、ときどき使命という言葉が出てきます。
けれども使命は肩書きではないのです。
自分は選ばれた特別な人間だと酔いはじめたところで、その働きは止まってしまいます。
名前を知られないまま働いている人たちは、自分が何者かを考えるひまもないほど、目の前の仕事に手を動かしています。
では、この層で学びはもう終わっているのでしょうか。
終わってはいないのです。
まだ、私が、という感覚がかすかに残っているからです。
私が光を送っている、私が助けている。
その手ざわりが消えきらないあいだは、まだ道の途中。
これを剥がしていく段階が、この先に控えています。
この層まで来ますと、地上で作られた教義の細目が、ほとんど届いていません。
どの経典を読むか、どの作法で祈るか、どの日に何を慎むか。
そうした取り決めは、この層に入る前にはらはらと落ちていきます。
大切ではなかったからではなく、役目を終えたからです。
真面目に守り抜いた戒めは、その人の心を確かに耕しました。
耕された心のほうだけが、この層まで運ばれていく。
いま何かの教えを信じて歩いている方は、手のなかの一冊も、朝夕の勤めも、そのまま続けてかまいません。
その教えはみなさんをここまで運んできた舟として、今日も働いています。
この層の魂たちは、地上を見下ろしてはいません。
彼らはかつて、私たちと同じところで迷い、同じように救いを外に探した魂です。
だから今、地上の苦しさをよく知る者として光を送っている。
その席に着いたとき、みなさんもまた、地上のどこかで立ち止まった誰かへ光を送る側に回っているでしょう。
